白い参拝記 今戸神社 【今戸1丁目】

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今戸神社 【今戸1丁目】

■主祭神 : 應神天皇 伊弉諾尊 伊弉冉尊 福禄寿
■創建 : 康平六年(1063)

今まで溜めこんでいた参拝記録もこの記事でようやく一通り消化。一段落つきます。

浅草駅より北東1キロ程の位置に鎮座。参拝は数回した事がありますが、南千住より山谷をめぐって徒歩でやって来るのがお決まりのルートです。

現在、「婚活」のパワースポットとして若い女性の参拝客が多い神社。この日も若い女性で賑わっていました。(テレビの取材まで来ていました。)
今戸神社の縁結びの神様は、合祀されている白山神社の夫婦の祭神、伊弉諾尊、伊弉冉尊。関東地方の白山神社を巡る上で絶対に避けては通れない、浅草弾左衛門の信仰していた神様です。

また、弾左衛門の影響が強いとされる関東の白山社において、祭日を「9月19日」にしている所が何故か多いのですが、おそらくそれは白山権現が嘉吉元年(1441)千葉之介胤直によってこの地に勧請したとされる9月に由来しているものだと私は思っています。後で引用しますが「白山大権現略縁起」にも「9月19日」が今戸の白山神社の開扉の日であることが記載されています。

千葉之介胤直、そして浅草弾左衛門に敬意を表す為、今戸神社の参拝記を本日9月19日にたててみました。

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神社入り口。

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拝殿。

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拝殿には今戸神社のマスコットとも言える、二体の招き猫。今戸は招き猫の発祥の地とも言われ(諸説あるようです)、この招き猫は縁を招くシンボルとして絵馬やお守り等のグッズにも描かれています。

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今戸焼発祥の地、沖田総司の終焉の地の碑があります。調べてみると沖田総司の結核を看ていたのが海水浴を普及させた事で有名な幕府の御典医松本良順だったようです。良順はお忍びで弾左衛門も看ており、明治維新の際の身分解放を裏から支えた人物です。

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境内には良縁を願う大量の絵馬。

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婚活女子の切実な願いが伝わってきます。

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社務所前にはこじゃれたオープンカフェのようにテーブルと椅子が置かれ、女子たちが絵馬に願を書き込んでいます。

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境内からはスカイツリーも望む事が出来ます。(撮影時は完成前の2011年3月5日)

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頂いた御朱印。こんなブログをやっておきながら白山神社の御朱印は一つも無いのはここだけの話・・・。

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神社案内板。

案内板を引用。
 当社は元今戸八幡宮と称し、後冷泉天皇の時代康平6年(1063)源頼義、義家父子は勅令に依り奥州の夷賊安大夫安倍貞任、宗任を討伐の折今戸の地に到り、京都の石清水八幡を鎌倉鶴ヶ岡と浅草今津村(現今戸)に勧請しました。
 應神天皇の母君神功皇后は新羅を始め三韓親征の際、時恰も天皇を宿されその帰路天皇を九州筑紫で誕生されました。
 したがって、應神天皇を別名胎中天皇・聖母天皇とも称し、安産子育ての神と崇敬されております。
 伊弉諾尊・伊弉冉尊御夫婦の神は加賀の白山比咩神社の御祭神にして、嘉吉元年(1441)千葉介胤直が自分の城内に勧請しました。
 諾冉二神は子孫の繁栄を与えられると共に縁結びの神と崇敬されております。
 昭和12年今戸八幡と合祀され今戸神社と改称されました。
 今戸の地名は古くは武州豊島郡今津村と称し、その後今戸(別字今都)となりました。


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今戸神社から200メートル程北上した地点、桜橋中学校の前辺り。資料の地図と周辺の寺院をの位置関係を見ると、この辺りから熱田神社の間位に白山神社があったのかな?と勝手に予想しています。

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今戸神社前に戻り、神社から30メートル程南にある、真宗大谷派本龍寺。ここには矢野家の菩提寺で、歴代の浅草弾左衛門が眠っている墓があります。寺紋が葵の御紋に似ていますがこれは「立ち葵」と言う紋で違うものだそうです。

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向かって一番右も含め、三基が矢野家の墓。手を合わせて来ました。

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さらに50メートル南にある山谷堀公園。その名の通り、かつては山谷堀とよばれる堀がありました。今は埋め立てられ、欄干の一部のみ残され公園になっています。ここは弾左衛門が住んでいた浅草新町の境界線でもありました。また山谷掘は吉原の遊郭へ向かう船の水路にもなっていました。吉原の入り口である吉原大門跡や見返り柳の写真もありますが話が逸れそうなのでまたの機会に。

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山谷掘を北西に歩くと、都立浅草高等学校が見えてきます。ここはかつて弾左衛門の屋敷があった場所でした。

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高校の脇には、浅草高校の前身の台東商業高校であった時のさらに前身の「山谷堀尋常小学校・国民学校」の跡地である事を記した記念碑。ここは弾家により寄贈された土地なのですが、残念ながらこの碑にはその事が書かれていません。

現在、今戸神社周辺は靴や皮革を扱った工場が多く見られます。それらは一三代目弾左衛門集保(弾直樹・矢野内記)が解放令後、平民となった配下の者たちを救済すべく自らの財産を投入し、維新によって需要が増した洋靴・軍靴産業の育成に力を入れた名残でもあります。

今戸神社の目と鼻の先にある弾直樹が起した皮革会社跡地に建つ「東京都人権プラザ」に展示があるので興味がある方は足を運んでみると良いかもしれません。
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最後に、今戸神社に祀られる伊弉諾尊・伊弉冉尊の由来を記した『白山大権現略縁起』で締めたいと思います。

白山大権現略縁起

 白山大権現と申し奉るは、天神七代伊弉諾尊、伊弉冉尊にして、嘉吉元年九月勧請在て、千葉之介胤直の領内勧請也。
 
 伝に曰く人皇百三代花園院御宇永享十年十月、征夷大将軍足利義教公御教書より論旨を添え、鎌倉足利氏を追討すべき由、上杉安房守憲実に命ぜられ、依って関東の武士一統に相布れられ、然る所千葉之介胤直男女三子有て十月中旬に疱瘡を病む。ここに加賀の国守護職冨樫の次郎家人中森彦五郎と云う者、故有て加州を立退き関東に来たりて千葉之介に属す。此者胤直妻女に語って曰く、加賀国白山大権現は霊験新にして、聖武天皇天平八年、国々始て疱瘡流行し貴賤死にせる者路々に満てり。帝此の由を聞し召し奉幣使を下し給い、泰澄法師に勅宣ありて丹誠を抽祈念したりしに、感応霊験新なりしと念項に語りしかは妻女甚だ感悦して一心に精誠を疑し、三子の命遠く加州の白山に祈誓す。日を経て三子無難に肥立ぬ。
 
 これによって領内に勧請し尊信拝礼を願うといえども、合戦中、殊に胤直は鎌倉在役なれば心底任せず、其上十一月上杉憲実の下知によって大石憲儀、上杉持朝、千葉之介胤直等は足利持氏の討手として、翌十一年二月鎌倉永楽寺へ発向し持氏自害したまひ、関東猶穏かにし合戦止む時なく、漸く嘉吉元年九月城内に勧請す。

 玆に其の後星霜久しく経て、当所の長吏六代先祖弾左衛門尉頼廉、東照大神君の厳命を蒙り、一子小太郎十五歳なるを伴ひて、濃州青野ヶ原の戦場を向う。此時神君大いに勝利を得たまい、敵の首数百級を経て頼廉に預けたまい、割符の印に集房の文字を以て記したまふ。頼廉是を守護しかたじけなく神君より恩賞を下し賜り、頼廉を改め集房と名乗る。返きょくを命ぜられ、且合戦の中小太郎難痘にて命危く、即ち関川に垢離して当社白山大権現に祈誓し奉るを、不思議なるかな其夜権現殊勝の相を現したまい、夢中に小石十五顆をあたへ、是汝の子新年の数なり、此石を以て守りとせば死命を助るべしとのたまふ。集房大いに喜んで拝受し覚て見れば枕の上に十五顆の石あり。即ち此石以て撫でさすりしかば忽ち平癒す。

集房は有難く感心したり。帰陣の後氏神と崇め奉り、神徳を子孫までも忘却仕る間じき宿願をこめたり。諸人此由を聞伝え、疱瘡ある時は神前の石を借り受け守りとなすに、其の験を得ずということなく、夫より星霜を得る事百余年にして、此度結縁のため開扉拝礼せしむるもの也。

 白山大権現神主
         中森斎官

延享元甲子年開扉八月一九日より 
             九月一九日まで


【訳文】
 白山大権現と申し奉るのは、祭神は伊弉諾尊、伊弉冉尊で、嘉吉元年九月千葉之介胤直が領内鎮守として勧請したものである。

 伝によれば、百三代後花園天皇の永享十年十月、征夷大将軍足利義教公が鎌倉の足利氏を追討すべく、上杉安房守憲実に命ぜられ関東の武士たちに布れが出されたころ、千葉之介胤直の子男三人が十月中旬に疱そうにかかってしまった。

 この時加賀の国守護職冨樫の次郎の家人で中森彦五郎という者が、加賀から関東に来て千葉之介に仕えていた。彦五郎が胤直の妻にいうには、加賀の国白山大権現は霊験新たかで、聖武天皇の天平八年諸国に疱瘡が流行し、多くの死者が路々にあふれていたので、時の帝は奉幣使をつかわし泰澄法師に命じ誠を尽して祈念したところ、感応霊験新たかだったと申しあげると、妻女は非常に感激して、一心に誠意をつくして三人の子の命を、遠く加賀の白山に祈念をかけると、いく日もなく三人とも全快した。

 このことがあって領内に勧請し信仰を深めたいと思っても殊に合戦の最中、特に胤直は鎌倉に居て思うようにならず、その上、十一月には上杉憲実の命によって大石憲儀、上杉持朝、千葉之介胤直等は足利持氏の討手として、翌十一年二月鎌倉永安寺へ発つ、持氏は自害したが関東止むことなく、ようやく嘉吉元年九月城内に勧請することができた。

 時は経て当初の長吏六代目弾左衛門頼廉は東照神君の厳命を受け一子小太郎を伴い濃州青野ヶ原の戦場に向った。この時神君(家康)軍は大勝利をおさめ、敵の首級数百を上げ頼廉に預け、割符の印に集房の文字をもって記録させた。頼廉はこれを守護し、家康より恩賞を賜り頼廉を改め集房と名乗るように命じられた。

 その合戦のさ中、小太郎は疱瘡にかかり命も危くなった。

 関川において水垢離をして白山大権現に祈願すると、不思議にも権現様が姿を現わし、夢の中で十五個の石を与え「これはお前の子の年の数である。この石をお守りとすれば命は助かるであろう」と告げられた。
 集房は大いに喜び、夢からさめて見ると、枕の上に十五個の石があり、この石をもって体をなでさすると小太郎の病気はたちまち回復した。

 集房は有難く感謝し、帰陣の後氏神と崇め奉り、神徳を子孫までも伝えなければならないと誓ったのであった。
 世の人はこのことを聞き伝え、疱瘡にかかったときは神前の石を借りてお守りとすれば、その験あらわれないことはないという。
 それより百年余を経てこの度結縁のため開扉拝礼させるものである。
                    


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Author:横稲荷 稲蔵
埼玉を拠点に、やみくもに白山菊理媛を追う男。歴史が苦手なくせに神社ブログを立ち上げる身の程知らず。

 
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