白い参拝記 勝呂神社 【石井字勝呂】

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勝呂神社 【石井字勝呂】

■主祭神 : 菊理姫命・伊弉諾尊・伊弉冉尊
■創建 : 崇神天皇の時代(前97-前30)、寛和二年(986)白山比神社勧請


県道256号「石井下宿」交差点付近のローソン脇の路地を東に500メートル程進むと鎮座しています。鳥居脇に駐車場併設。

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神社入り口。

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古墳の上、階段を上るとすぐ拝殿。真正面からは撮影できず。

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神社名額は白山本宮白山比神社宮司謹書。

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拝殿から境内を眺める。

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神社案内板。

当社は『風土記稿』に「社地は墳墓の如し、高さ五間許、思ふに往昔勝呂氏の祖先の墳墓にてもあるか、今伝へなければ詳ならず」とあるように、勝呂神社古墳の墳丘上に祀られており、境内には老松・老杉が繁茂し、神さびた雰囲気を醸し出している。
社記では当社の創建について次のように伝えている。
崇神天皇の時代に四道将軍となった建渟河別命は東夷平定にあたり、この地を本拠に活動した。命は、その功を遂げると都へ戻ったが、後年再び来住して、村人たちの文化を高めた。命が薨ずると、村人たちは広大な陵墓を築き、東北鎮護の神としてここに命を奉斎した。これが今日の勝呂神社古墳である。
寛和2年、命の陵墓の上に北陸鎮護の神として知られる加賀の白山比神社の分霊が祀られ、里人に厚く信仰されるようになっていった。
その後、鎮守府将軍として奥州の逆徒追討に向かった源義家は、建渟河別命の誇示に倣い、当社に参拝して戦勝を祈念したところ、霊験あり凱陣に報賽し、延喜5年に社領を定めたという。
武蔵七党の村山党に属した須黒(勝呂)氏は、鎌倉時代には『吾妻鏡』に名を残す程の勢力となっていた。とりわけ須黒太郎恒高は、当社を氏神として熱く信仰し、社領を加増するとともに、健保元年に社殿を再栄し、社号を勝呂白山権現に改めた。
(中略)
明治に入り、社号を白山神社と改め、石井村の村社となり、明治42年には地内の無格社15社を合祀したのを機に社号も古来の地名をとり勝呂神社として現在に至っている。

因みに「毎年4月1日に、春祈祷と称して、上尾市平方から借りてきた獅子頭を持ち、氏子区域を一巡して厄祓いをする行事もある」とあります。ここでも出てきた八枝神社の獅子頭。

参考 : 『埼玉の神社』


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横稲荷 稲蔵

Author:横稲荷 稲蔵
埼玉を拠点に、やみくもに白山菊理媛を追う男。歴史が苦手なくせに神社ブログを立ち上げる身の程知らず。

 
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