白い参拝記 水戸市

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白旗神社 【平須町】

水戸市植物公園東側の駐車場南西に1.5キロほど進んだ住宅地に鎮座。植物公園から自転車で参拝しました。

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神社入り口。

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拝殿。

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末社。

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鳥居近くにあった馬頭観音。昭和59年の新しいものと年代不明の古いもの。旧地名の「田向」の文字が見える。

資料より引用

江戸浅草弾左衛門の支配下にあった関東や奥州のえた集団内においては、その影響により白山神社が多く分布しているが、水戸領の場合も江戸初期にその支配下にあったためか五兵衛の屋敷内に白山権現が祀られていた。

前述の天明八年(1788)の五兵衛の勧化を知らせる触書の中に「居屋敷内勧請置候白山権現社頭破壊同様ニ相成候」とあったが、近世後期には、皮多集団の精神的結束の象徴として白山権現への信仰が強まっていたと考えられる。天保地検の際には、田向井の五兵衛屋敷の側に移され、安政7年(1860)には白旗宮と呼ばれていたが、なぜ白山権現が白旗宮に改称されたのであろうか。

斉昭は天保14年(1843)12月、寺社改革を行い、唯一神道をもととした神仏分離、一村一社鎮守とし、氏子性を設けた。平須村の鎮守とされたのは稲荷神社であるが、それとは別に田向井坪内の共同の神社とし、白山権現を改め白旗宮つまり白旗神社とした。権現とは仏が人々を救うために神に姿を変えてこの世に現れたもので、神仏習合であった。そこで、権現を止めるとともに、神社名も白山ではなく白旗に変えたのであろう。


まとめると、この地を支配していた平須村皮多頭五兵衛の屋敷には江戸初期まで浅草弾左衛門の支配下であった事を象徴する白山神社が祀られていたけれど、徳川斉昭による仏教弾圧の流れで信仰を白山権現から白旗宮にしたと言う事でしょうか。

少々無理がある説ですが、個人的には弾左衛門の支配下ではないと言う主張と、稲荷神社に合祀されていないと言う事もあり、五兵衛や田向井の住民の独立心の強さを象徴していた神社なのではと考えています。


参考 : 『幕末水戸藩と民衆運動-尊王攘夷運動と世直し』
/高橋裕文 編(2006)
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横稲荷 稲蔵

Author:横稲荷 稲蔵
埼玉を拠点に、やみくもに白山菊理媛を追う男。歴史が苦手なくせに神社ブログを立ち上げる身の程知らず。

 
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